2つのトートロジー

「トートロジー」を辞書で引くと以下の様である。

1 同語反復

2 命題論理で、要素となる命題の真偽がいかなるものであっても、常に真となるような論理式。恒真式。

トートロジーとは何事も語らないこと

1の意味においても、2の意味においてもトートロジーとは何事も語らないということである。

私は私だ。

これもトートロジーな文章である。
私が私であることは当たり前のことである。
トートロジーな文章は論理的には何事も語らない。

だだし、文学的な表現としては十分に意味があるし、ドラマなどで比較的よく使われるセリフであるように思う。確固たる自分の存在を確認したりアピールしたりする表現であろう。
ここでひとつの仮説について考えてみたい。

バカなやつはテストの点数が悪い

このような指摘は至極当然のこととして受け入れられると思う。
とくに小学校から大学まで何度ととなくテストをうけさされ、実際テストの結果によって振り分けられてきた。

と同時に以下のような主張もある。
ペーパーテストだけで人間の有能さを計ることはできない。

結論を先に述べると、この仮説は意味論的にトートロジーであり、何事も語っていない。

なぜならこの仮説には反証可能性がないからである。
反証可能性とはポパーが提唱した科学と非科学の分水嶺のことである。
反証可能性があれば科学であり、反証可能性がなければ非科学である。
私は、その違いを論理と非論理と言っても良いと思う。

この仮説を原因と結果に分ける。
(原因)テストを受ける者がバカ
(結果)テストの点数が悪い

では、この仮説は反証できるであろうか?
馬鹿ではない(有能である)のにテストの点数が悪い。
あるいは、バカなのにテストの点数が良い。
そんな反証をあげることができるのだろうか?

私は難しいのではないかと思う。
なぜなら、そもそも「バカ」という表現が曖昧だからである。
何をもって有能とし何をもって「バカ」とするのか?
「バカ」の定義が曖昧なのである。
だからこそ、我々はテストの点数でもってバカと有能を分けてきた。

結局のところ先の仮説は定義の曖昧さ故に反証されない。
有能であってもテストの点数が悪い限り仮説通りバカと判定される。
また、バカであってもテストの点数が良い限りやはり仮説通り馬鹿ではない(有能である)と判定される。

故にこの仮説はトートロジーである。
定義が曖昧なために、反証可能性がなく常に「真」となってしまう文章であり、非科学的であり、非論理的な表現であり、同語反復なのである。
バカはバカと言っており、
テストの点が悪いやつはテストの点が悪いヤツだと言っているのと変わらない。
つまり、非生産的な仮説である。
では、トートロジーは悪か?

もうひとつのトートロジー

しかし、命題論理においてトートロジーは重要な働きをする。
それは推論の正しさを判定する働きである。

AならばBである
Aである
ならばBである

実はこの文章はAやBの命題の真偽に関係なく真となるトートロジーである。
故に何事も語らない文章である。

しかし、先の文章がトートロジーであるが故に以下の推論は、
前提が真であるかぎり結論も真であり、
前提が真であるのに結論が偽であることはない。

AならばBである
Aである
したがってBである

これは正しい推論である。
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美的感覚の違い

日本では古来より白銀比が多く使われており、日本人の多くが白銀比を美しいと感じるようだ。
コピー用紙など紙の規格は工業生産の都合もあって白銀比が使われている。
また、日本のキャラクターの多くにこの白銀比が使われている。

それに対して西欧では黄金比がもっぱらであり、西欧人の多くが白銀比よりも黄金比を美しいと感じるようだ。
ギリシャのパルテノン神殿が黄金比であることは有名であるし、多くの絵画や彫刻に黄金比は多様されている。

白銀比と黄金比への嗜好は文化によって異なるようだが、なぜそのような違いが生まれたのだろうか?

日本においては、限られた資源である木材を効率よく利用するために白銀比を使うという発想はたしかに自然であるように思う。

ただ、私は最近なんとなく女性の体つきに由来しているのではないかと思っている。

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